
谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」は1933年に発表された随筆で、日本の伝統的な美意識を「影」という視点から論じた作品なんです。この作品が書かれた背景には、日本の急速な近代化があります。
参考)「陰翳礼讃」をわかりやすくする|小林正宗(こばやしまさむね)
当時、電灯などの近代的な照明技術が普及し始め、日本の生活様式が大きく変化していました。谷崎は西洋式の明るい照明を否定するのではなく、あえて日本の伝統的な「薄暗さ」に宿る美しさを再発見しようとしたんですね。
参考)【日本美学1】第2回:陰翳礼讃 – 光と影の対話|働く身体を…
読み方は「いんえいらいさん」で、陰翳とは「影」のことを指します。谷崎は影や闇に日本の伝統の美を見出し、漆器や和室、さらには厠(トイレ)に至るまで、さまざまな事例を通じて日本独自の美意識を語っています。
参考)高野文子、谷崎潤一郎が日本の厠に見出した美を論じる「陰翳礼讃…
「陰翳礼讃」をわかりやすく解説した記事
この随筆は現代でも建築家やアーティスト、デザイナーなど幅広い分野に影響を与え続けています。特に視覚表現を扱う漫画やイラスト制作においても、影の使い方を学ぶ上で重要な示唆を与えてくれる作品です。
参考)陰影が生む建築の美——『陰翳礼讃』(谷崎潤一郎)解説① - …
谷崎潤一郎は「陰翳礼讃」の中で、西洋と日本の光に対する考え方の違いを鮮やかに対比させています。この視点は、漫画のライティング表現を考える上でも非常に参考になるんです。
参考)デザイン読書補講 8コマ目『陰翳礼讃』|designing
西洋の美術では、ルネサンス以降「キアロスクーロ(明暗法)」という技法が発展し、対象を明るく照らすことで形状や立体感を明確に表現してきました。一方、日本の伝統的な空間では、障子や襖を通して柔らかく拡散された光が、空間全体に淡い陰影を作り出します。
谷崎は金屏風について興味深い指摘をしています。美術館のように隅々まで照らされた金屏風はケバケバしく見えてしまうけれど、古い建物の薄暗い空間に置かれた金屏風は、遠くの庭からの微かな光を捉えて「夢のように照り返す」と表現しているんです。
デザイン観点から陰翳礼讃を解説した記事
西洋的な光の扱い | 日本的な光の扱い |
---|---|
対象を明確に照らす | 薄暗さを残して想像力を刺激する |
強い光で立体感を強調 | 柔らかな間接光で深みを出す |
すべてを可視化する | 見せすぎない暗示の美学 |
漫画のコマ割りでも、すべてを明るく描くのではなく、あえて影を残すことで読者の想像力を喚起し、情景に奥行きを持たせることができます。特に和風の作品や時代物を描く際には、この陰翳の考え方が重要な表現技法になるんですね。
谷崎潤一郎は「陰翳礼讃」の中で、漆器について特に詳しく語っています。彼の漆器論は、漫画における色彩設計や質感表現を考える上で、非常に示唆に富んでいるんです。
参考)陰翳礼讃と漆器|伝統工芸のイトウ
谷崎は「事実、『闇』を条件に入れなければ、漆器の美しさは考えられない」とまで断言しています。派手な蒔絵を施したピカピカ光る漆塗りの器も、太陽や電灯の下ではケバケバしく俗悪に見えることがあります。
しかし、それらを真っ黒な闇で囲み、一点の灯明や蝋燭の明かりで照らすと、たちまちそのケバケバしさが底深く沈んで、渋く重々しいものに変化するというんです。古の工芸家たちは、暗い部屋と乏しい光の中での効果を狙って漆を塗り、蒔絵を描いていたと谷崎は推察しています。
漆器と陰翳礼讃の関係を詳しく解説した記事
特に印象的なのが、漆器の椀について語った部分です。蓋を取って口に持っていくまでの間、暗い底の方に容器の色とほとんど変わらない液体が音もなく澱んでいるのを眺める瞬間の気持ちを、谷崎は「一種の神秘であり、禅味である」と表現しています。
これを漫画表現に置き換えると、キャラクターの着物や小道具の質感を描く際、ただ明るく塗るのではなく、深い影の中にわずかな光沢を残すことで、より豊かな表現ができるということなんです。色の選択でも、鮮やかな色をそのまま使うのではなく、影の中で沈んで見える色味を意識することが重要になります。
参考)谷崎潤一郎「陰翳礼讃」にみる和文化の真髄3 〜漆と闇の文化〜…
実は「陰翳礼讃」自体が漫画化された例があります。2016年に高野文子さんが「マンガアンソロジー谷崎万華鏡」という連載で、「陰翳礼讃」の中から厠(トイレ)について言及された部分を漫画化しているんです。
この連載は11名の漫画家が谷崎潤一郎の半生や小説をモチーフに、谷崎文学の魅力を漫画で表現していくシリーズでした。谷崎が日本の厠に見出した美を、高野文子さんがどのような視覚表現に落とし込んだのかは、漫画における陰翳表現の実例として非常に興味深いものです。
谷崎は随筆の中で、日本の厠は離れにあって半戸外のような雰囲気があり、薄明かりの中で木造建築の質感や自然とのつながりを感じられる空間だったと述べています。明るい現代のトイレでは味わえない「静かな自然とつながるひととき」があったというんですね。
漫画を描く際にも、背景に陰影をしっかりつけることで、空間の奥行きや時間帯、雰囲気を効果的に表現できます。特に静寂や孤独、内省的なシーンでは、影を多用することでキャラクターの心理状態まで表現することが可能になるんです。
ベタ塗りやトーンワークで影を作る際も、ただ暗くするのではなく、谷崎が語ったような「底深く沈んだ」質感を意識することで、より深みのある画面が作れます。デジタル作画でも、レイヤーを重ねて複雑な陰影を作ることで、日本的な情緒を表現できるようになります。
谷崎潤一郎が「陰翳礼讃」で語った空間演出の考え方は、漫画のコマ構成やページレイアウトにも応用できます。特に和室や日本家屋を舞台にした作品では、この美意識を理解しているかどうかで表現の質が大きく変わってくるんです。
谷崎は日本座敷を墨絵に例えています。障子は墨色の最も淡い部分であり、床の間は最も濃い部分だと。日本人は光と影の使い分けに巧妙で、床の間の暗がりには「永劫不変の閑寂」が宿っているような感銘を受けると述べているんです。
参考)平成以降の光と影(比喩ではなく)について:谷崎潤一郎『陰翳礼…
この考え方を漫画に応用すると、コマの中でも明度の強弱をつけて構成することで、読者の視線を自然に誘導できます。重要なシーンほど影を深くして、そこに光を一点集中させる手法は、劇的な効果を生み出します。
陰翳礼讃の建築美について詳しく解説した記事
また、谷崎は食事風景についても言及しています。行灯のような柔らかな明かりの下では、料理の彩りが際立ちすぎず、ほのぼのと浮かび上がることで、味覚や嗅覚への集中を促すというんです。
これを漫画のシーン演出に置き換えると、食事シーンや日常の何気ない場面でも、照明の描き方を工夫することで、よりリアリティと情緒を持たせられるということになります。夜のシーンで蝋燭や行灯の光源を描く際、その光が届く範囲と影の濃淡を丁寧に描き分けることが重要なんですね。
明るいシーン演出 | 陰翳を活かしたシーン演出 |
---|---|
すべてが見える安心感 | 見えない部分が想像を刺激 |
説明的でわかりやすい | 暗示的で余韻が残る |
活動的・外向的な印象 | 内省的・情緒的な印象 |
さらに谷崎は、暗がりの中でこそ「侘び寂び」や「幽玄」といった日本美学の他の要素とも繋がると述べています。見えない部分にこそ真の魅力があるという考え方は、「引き算の美」として現代のデザインにも通じる普遍的な原理なんです。
デジタル作画が主流となった現代でも、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」の思想は十分に活用できます。むしろデジタルツールの発達により、より繊細な陰影表現が可能になっているんです。
クリップスタジオペイントやメディバンペイントなどのソフトでは、グラデーションツールやエアブラシ機能を使って、谷崎が言うような「底深く沈んだ」質感を再現できます。レイヤーの乗算モードや覆い焼きモードを駆使することで、複雑な光と影の相互作用を表現することも可能です。
特にキャラクターデザインにおいて、肌の質感や髪の毛の艶を表現する際、強い光で照らすのではなく、柔らかな間接光の中で微妙な陰影をつけることで、より魅力的なビジュアルが完成します。谷崎が漆器について語った「暗がりの中で微かに光を反射する」という表現は、髪の艶や瞳のハイライトを描く際の参考になるんですね。
和風ファンタジーや時代劇漫画を描く際には特に重要です。障子越しの柔らかな光、行灯の揺れる炎、月明かりに照らされた縁側など、日本的な光源を描く機会が多いからです。これらのシーンで谷崎の美意識を理解していれば、より本格的で情緒豊かな表現ができます。
現代では、LED照明やディスプレイの強い光に囲まれて生活しているため、かえって「暗闇の価値」が見直されています。レストランなどでも照明を落とした空間演出が注目されているように、漫画でも意図的に影を活用した表現が読者の心を掴むことがあるんです。
読者の多くがスマートフォンやタブレットで漫画を読む時代だからこそ、画面の明るさとのコントラストを意識した作画が求められます。デバイスのバックライトを考慮しながら、それでもなお「影の美しさ」が伝わる描き方を工夫することが、現代の漫画家に求められるスキルの一つになっているんですね。
漫画は白と黒のコントラストで成り立つ芸術形式です。だからこそ、谷崎潤一郎が「陰翳礼讃」で語った影の哲学は、漫画表現にとって本質的に重要なテーマなんです。影を単なる暗い部分としてではなく、積極的に美を創造する要素として捉えることで、作品の表現力は格段に向上します。
参考)影の付け方・塗り方講座!影の種類を知って立体的な絵を描こう …